今や世界的に有名な新宿二丁目（世界のゲイマップにも出ている）に僕が初めて足を踏み入れたのは、公務員から
役者になりたての劇団青俳にいた頃、21.2歳か。同じ養成所にいた僕より少し年上の佐川紀子という、その頃
真面目だった僕から見て、彼女は不良だった。その不良少女に連れてこられたのが二丁目だった。
連れてこられた「すぎ」と言う店で、どういう訳かアルバイトをすることになった。
横浜の実家から通っていた僕は夕方6時から10時という勤務だった。
ひ弱なマスターと二人だけの6人しか座れない小さな暇な店だった。
僕が上がる10時までいた客は、大抵僕を飲みに誘った。僕は躊躇したがマスターはホレホレ行ってきなさいと。
僕は一時間だけならと。一か月だけのアルバイトだったが、半分は客にあちこち連れていってもらった。
あちこちの間にやっと、やっとこの近辺の繁華街の店は何かおかしいと（純情だった僕）気付いた。

45年前の新宿二丁目は今のようなオープンバーも無く、週末ともなれば人を掻き分けて中通りを歩くなんて想像も
できない程に閑散としていた。
閑散をたとえて言うなら、シャッターを下ろしていないシャッター街を想像していただきたい。
しかし店の看板ネオンは色付きが多く紫、赤、青と派手で決まって四角だった。どの店も入り口は狭い。
派手なネオンなのに、何故かどのネオンも澱んで見えたのは、人通りが無いせいもあるが、路地角から突然
「お兄さん、お兄さん！」と声を掛けられる恐怖もあったかも知れない。
青線の時代の残りか、立ちんぼのおばさん達（？）が暗闇の中からスッと出て来る。
そんな中チョット広めの入り口の前で、火鉢を前に大股で座って煙草をふかして退屈そうに、人通りのない通りを
毎日眺めているおばさんがいた。
時折サラリーマン風の男に声を掛けていたが、僕は子供と思われたか掛けられた事がなかった。
ところがある夜バイトを終えた帰り道、入り口から離れた前をハイライトを吸いながら通り過ぎると「お兄さん！」
僕は一瞬立ち止まったが、通り過ぎようとした。
「お兄さん、チョット待ってよ、お兄さん」火鉢の前でひざ掛けにしていた手編みと思われるグレイのショールを
羽織って追いかけてきた。
「タバコ一本ちょうだいな」「はい、いいですよ」僕は先生の前の生徒のように丁寧に差し出す。
「あら、火も付けてよ」声が甘ったるくなる。「はい」何処かの喫茶店で貰ったマッチで火をつける。
おばさんか、お婆さんかと思っていたその人はまだお姉さんだった。
「坊や、いい男ね。チョット寄っていかない？」「何、するんですか？」やっと聞くことができた！
入り口だけでもいかがわしい雰囲気は十分にあったが、当時風俗なるものに縁のなかった僕は、実は興味深々だったのだ。
「何って、いいことよ」股間に手を伸ばし、僕は避ける。
「高いんでしょ？」と僕。「いくら持ってるの？」「、、、３千円」風俗の相場のわからない僕は有り金５千円からそう言った。
「もう少しあるでしょ？」「無いですよ、またね！」行きかけた僕の腕をとり「坊や、可愛いからいいわよ」
通された部屋はミシミシいう階段を上った二階で、薄暗い廊下の両脇には木のドアのある部屋とカーテンだけの部屋があった。
僕はカーテンだけの二畳程の部屋に通された。
中央に丸椅子が一つだけ置いてある部屋で待たされ、僕はそこに座ってジャンパーは脱いだ方がいいのかな？と考えていた。
すぐに薄っぺらな黄色いネグリジェを着たブラジャーとパンティだけの、入り口のお姉さんと同じ年位のお姉さんが来た。
「いらっしゃい」ニコリともせず機械のように言う。「それではこれから東京案内します」言いながらブラジャーをはづす。
右の乳房を掴んで「東京タワーでございます」左の乳房を掴んで「こちらが霞が関ビルでございます」
丸椅子に座った僕の目の前での東京案内だ。
「触ってもいいのよ。割増しになるけど」「いや、いいです」
続けて言う「ずっと下って、はい、狸穴です」おへそは、でべそではなかった。
「触ってもいいのよ、割増しになるけど」今度は僕の手を取る。「いや、いいです」
「そして続いては、、、」間があって、パンティを少し下げる。黒い陰毛が半分見える。
「芝公園です。これ以上は割増しよ」「え、もう終わりですか？」「３千円はここまで」
後日割増しを払えば、芝公園の下、水道局を案内してもらえると聞いた。
さらに割増しを払えば、東京ガスも案内してもらえると聞いた。

店を出た後僕は「東京タワーでございます！霞が関ビル、狸穴、芝公園でございます！」と叫びながら
スキップする程に喜び、楽しかった。
下半身には全く元気をもらえなかったが、嬉しくて仕方がなかった。
風俗初体験が嬉しかったのか、火鉢おばさんの後ろの淫靡さが楽しかったのか、未だにわからない。
次の日その勢いで、火鉢おばさんに「昨日は楽しかったです」と言いたくなった。
ところが、バイトを終えておばさんに近づこうとすると、足がすくんだ。
昨日まで、火鉢を前に大股開きで煙草をふかしていたおばさんが、二丁目の主のように見えたおばさんが
小さな、みすぼらしい老婆のように見えたのだ。
僕はおばさんに見つからないよう路地に入り、それ以来おばさんの前は通らない。
未だに何故かわからない。

赤線地帯（売春が公認されている地域）青線地帯（売春が公認されていない地域）なるものを知ったのは
ずっと後で、二丁目が青線地帯で売春防止法で警察の目が厳しかったと聞いた。
火鉢おばさんの入口を入って「東京案内」を見た時に、僕はおばさんの心の中の絶望も見たのかも知れない。
これが後付けなのか、未だにわからない。

今や世界中の人達で賑わう、新宿二丁目ゲイタウン！
火鉢おばさんを知る人はいない。